2010/12
桂川甫周と森島中良君川 治


桂川甫周 屋敷跡



 幕末の蘭学者を調べてみると多くは江戸に住んで活躍しているが、殆どが諸藩の蘭学医である。
 幕府の学問所は朱子学である。蘭学を異端視していたから止むを得ないとも云えるが、他方では天文方の中に蕃書和解御用という洋書の翻訳や研究する部署を1811年に設立し、その後1855年に蕃書調所と名前を変えて海外事情の調査や洋学研究・教育機関としている。
 しかしここの翻訳官や教授は大槻玄沢や宇田川玄真、馬場佐十郎(通詞)、箕作阮甫、川本幸民、大村益次郎(長州)、寺島宗則(薩摩)、西周(津和野)、津田真道(津山)など皆地方出身の蘭学者である。譜代大名の藩の出身者が多いが、封建の世で幕府任官と出身藩と、どちらに重きを置いたのだろうか。
 中央政府(幕府)が先端技術をないがしろにしたところに幕末の混乱と幕府崩壊の遠因が隠れているのではないだろうか。江戸の青木昆陽はオランダ語を研究した先覚者であるが、蘭学者には入れ難い。更には商家の出身であって幕臣ではない。幕府の蘭学者は桂川甫周(1751-1809)しかいない。

 本誌で取り上げた蘭学者を下表に纏めてみた。
   幕 府  青木昆陽桂川甫周
   小浜藩  杉田玄白中川淳庵
   中津藩  前野良沢
   津山藩  宇田川玄随、玄真、榕菴箕作阮甫
   一関藩  大槻玄沢
   佐賀藩  伊東玄朴
   足守藩  緒方洪庵
   三田藩  川本幸民

 桂川家は代々幕府の奥医師を務めているが、初代桂川甫筑邦教は大和の出身で森島姓である。京都の嵐山甫安にオランダ流外科を学び、姓を師匠の嵐山に因んで桂川と改めた。その後、甲斐甲府の徳川綱豊のお側医となり、綱豊が家宣と改名して西ノ丸入りしたのに従って西の丸奥医師となる。
 1709年、綱吉の後を継いで6代将軍徳川家宣となり、桂川甫筑邦教は幕府奥医師に昇格する。その後、7代家継、8代吉宗の3代の将軍に仕えて、将軍お側医と大奥担当医師として地盤を築いた。
 桂川甫周は桂川家第4代の蘭学医で、江戸参府のオランダ商館長が将軍拝謁の際に陪席し、江戸長崎屋に逗留する商館長や商館医から海外事情を調査することを許されていた。更には幕府蔵書のオランダ書物を借用・閲覧を許されており、築地の桂川家屋敷には蘭学者たちが集まってきた。甫周の交友は前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、大槻玄沢、宇田川玄随、平賀源内などであった。
 甫周は前野良沢、杉田玄白らのターヘルアナトミア翻訳事業に参画し、翻訳した「解体新書」は杉田玄白から甫周の父、桂川甫三国訓を通じて将軍に提出している。甫周はまた、地理学者としても有名のようだ。ロシアに漂流して帰還した大黒屋光大夫の事情聴取を命ぜられ、ロシアや外国事情を纏めた「北槎聞略」を幕府に提出し、さらに外国地理に興味を抱き地理書を出版している。
 森島中良は桂川甫周の実弟で、森島姓を名乗り、兄と共に蘭学者たちと交流した他、司馬江漢(画家)や大田南畝、喜多川歌麿、山東京伝など交友関係があった。彼は蘭学や海外事情にも通じているが、平賀源内に戯作を習い、随筆やエッセイを多く書いている。面白いのは「紅毛雑話」である。オランダ商館員や蘭学者たちから聞いた海外の話を纏めた本で、エレキテル、顕微鏡、銅板印刷、などの話が紹介されている。
 中央区の築地本願寺の北側に「桂川甫周屋敷跡」の説明板がある。東京も関東大震災や太平洋戦争の戦災で古いものは皆失われてしまい、当時の面影は全く無い。桂川家の墓は東京三田の上行寺にあったが、寺ごと神奈川県の伊勢原市に移転している。

 江戸の蘭学者遍歴も長くなったので、次回からは我が国の近代化に大きな足跡を残した外国人たちを眺めてみることとしたい。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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